アヨーディアは、ラーマの生誕地。
アヨーディヤーの名は「難攻不落の都城」を意味し、古代コーサラ国の初期の首都とされ、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の故郷としても知られます。
アヨーディア4日目。
今日は、アヨーディアの中心街にある、ハヌマンのお寺へ。
門前町という雰囲気で、物凄く賑わっています。
インド中からたくさんの巡礼者。
けれど、ブッダガヤやヴァラナシのように外国人の姿はあまり見かけません。
たくさんのインド人にセルフィーを頼まれますが…
日本人は珍しいのかな😊
とにかくみんな、素朴、フレンドリーです。
ポリスがセルフィを頼んできたり😆アヨーディアの最も大事な場所、ラームジャナムブーミはイスラム教徒との対立が絶えない場所で有名のようです。セキュリティも厳しいです。要所要所に銃を持ったポリスが沢山います。
場所の説明をしてくれたり、テンプルで荷物を見てくれたり、すごく親切で優しかったです。
街中にたくさんあるラドゥというお菓子屋さん。味は最高。
🌞コーサラ国
首府は、当初、アヨーディヤーだったが、釈尊の時代には仏典にも頻出するシュラーヴァスティー(舎衛城)に遷っていた。ウッタル・プラデーシュ州辺りを中心としていた国。 『ラーマーヤナ』によると、伝説的な王であるイクシュヴァークが建国したと言う。プラーナ文献によれば、初代アヨーディヤー王イクシュヴァークはヴァイヴァスヴァタ・マヌの孫にあたり、その子孫は太陽の一族すなわち日種と呼ばれる。イクシュヴァークの子孫はインド全体にひろがって王となったと伝えられる。
尚、『ラーマヤーナ』の主人公ラーマは同国の王子とされている。釈尊の時代、コーサラ国はマガダ国と覇を競い、シャーキャ族もコーサラ国に従属しており、又、釈尊の晩年、同国のヴィドゥーダパ王がシャーキャ族の大虐殺を行ったと伝えられている。しかしながら、その後、ヴィドゥーダパ王はマガダ国のアジャータシャトル王に大敗し、同国はマガダ国の支配下に置かれてしまったと言う。
日種(にっしゅ、サンスクリット語: सूर्यवंश sūryavaṃśa スーリヤ・ヴァンシャ)とは、インドの王族で、伝説のアヨーディヤー王イクシュヴァーク(甘蔗王)を始祖とする。パーリ語ではオッカーカ(Okkāka)。イクシュヴァークのイクシュ(ikṣu)とは甘蔗(サトウキビ)を意味する。釈迦族もイクシュヴァークの子孫と伝えられる。
プラーナ文献において、古代インドの王家はほとんどが日種と月種のいずれかの系統に整理された。
以下はエラゴンが調べてくれたことより…
インドの王族は大きく二つに分かれる。
日種と月種である。
月種はChandravamsha、日種はSuryavamsha またはIkushvakuと呼ばれる。
Suryavamsha とは、文字通り太陽の一族という意味でその起源は太陽の神スーリヤ。
そしてヒンドゥ神話では、スーリヤの息子であるヴァイバスバタ・マヌが全人類の始まりとされる。
そしてイクシュバクという日種の別名は、ヴァイバスバタ・マヌの息子でありコーサラ国の王であったイクシュバク王にちなむ。
イクシュバク王は全世界の王(Chakravarti = the universal ruler)となり非常に強靭だったため、彼の名を取ってこの血族を「イクシュバク」と呼ぶようになった。
そういえば、昨年訪れたヴァシュシュト村はラーマの先生ヴァシュシュトと故郷という。
マナリのマヌテンプルも。マヌから来ているそうです。
ここも、アヨーディアと繋がっている流れで、重要です。
〜ヴァシシュト村は、ヴァシシュト族のホーム〜
1534年までヴァシシュト村は聖仙ヴァシシュトからの直系血族により治められていたが、ムガル帝国のアクバル大帝により征服され、ヴァシシュト一族はパンジャーブ地方へ移住させられる。 サプタリシ(7聖賢)の一人である聖仙ヴァシシュトとその家族の名前は、ヴェーダの中に多々登場。ヴァシシュト自身はリグヴェーダの一部を作っている。
そしてシャンカラが大成したインド六派哲学の一つ・ヴェーダンタ学派の始祖とも言われている。
マナリはヴァイヴァスヴァタ・マヌの降り立ったところ。
マヌはアヨーディヤ初代の王と言われてる。
ヴァシシュト はアヨーディヤの霊的指導者
アヨーディヤと繋がり深い
この写真は昨年11月に訪れた時のもの
ラーマーヤナでは、ラーマは王位継承争いに巻き込まれ、森に行かされる。その時に妻シーターは誘拐される。
ハヌマーンの助けもあり、ラーマは無事シーターを奪回し、アヨーディヤに連れ帰る。
その時はもう国中が、ラーマを追放したことを悔やんでいたため、ラーマとシーターの帰還は国を挙げて歓ばれた。
そして帰還したラーマに王位を授ける儀式を執り行ったのが、コーサラ国の霊性の監督者ヴァシシュト 。
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話は飛びますが、タイの王様の名前もラーマです。
ラーマ王子の伝説ラーマーヤナがタイに伝わった時期は、11~12世紀頃。タイの首都バンコクの北にある古都アユタヤは、14世紀中頃、アユタヤ朝の都として築かれました。アユタヤという王朝名は、ラーマーヤナの王国の都、「アヨーディヤ」からきている、とされます。初代の王「ラーマーティボディ1世」はラーマ王を意味する。タイの王室とインドのとの結びつきは深く歴史があるようです。
写真は2月最初のアユタヤ
アヨーディヤは古代にはサーケータという名で知られ、ヒンドゥ教ではインドの七つの聖なる町の筆頭とされてきた。この町を中心とした地域はかつて、アヨーディヤーの名をとって「アワド」という歴史的名称で呼ばれ、古来より数々の王朝がこの地を領して栄えた。とあります。
またこのアワド…さらに遡ってみてみます。
歴史研究者の鹿島昇氏によれば、アワドとは…フェニキアのアルワドに由来する、と。
〜BC1500 年頃~1200年頃、エブス人たちの海人は、レバノンのアルワドからインドのロータルに移住し、デリーを経てマガダ近くまで移動し、インド十六ヶ国時代、 コーサラ国、アンガ国などの日神王朝諸国になりました。日神系のなかにはアンガ、コーサラ、マツラなどの諸国がありましたが、アンガ国はソロモン王のタル シシ船の移民の地でありコーサラ国はフェニキアのアルワド人の植民市であり、マツラ国はアラビア海のメルッハ人の国家でした。釈迦は、コーサラ国のなかの 王族でした。駕洛国の王は、金首露で、王妃はアウド国の女【許氏】で、【許】がアウド国の別名コーサラを指します。〜とのこと。
かんたんにいうと、アワド=コーサラ=許氏なのですね。
下の写真は、アヨーディアのアワドと書かれた地面の文字
🐟🐟🐟🐟🐟🐟🐟
そして、本当に街の至る所に、双魚紋が!
〜以下は同じサイトからの引用双魚紋はウッタルプラデーシュ州のシンボルだそう。チベットにもアヨーディアという生地の伝説があるようです。本に書かれていましたが、まだ詳しく調べられていません。そして8つの吉祥のひとつが双魚の紋様。さらに双魚紋を掘り下げていくと…🐟🐟🐟🐟🐟🐟🐟〜アユダ古代のインドの阿喩陀国(Ayodhya)の象徴が双魚紋であった。この国またはその分国の許黄玉王女が金官加羅の始祖・金首露王の妃となっている。阿喩陀国の東南に昔「阿羅国」と呼ばれた国があって、今はそこをkaya(カルカッタ西北所在)と呼んでいる〜さらに、kara駕洛国、加羅・伽耶の象徴も双魚紋なのである。金首露王陵の正門柱の上段に亙いに見合う六対の双魚紋が描かれている(これと同じ双魚紋が邪馬壼国の所在地として注目されている九州の八代の妙見宮にもあるを盟主国ないしは本国として崇めた名ということになる。また、天皇系図の分析について-古代の東アジア-」の著者である藤井輝久氏は魚形、とくに双魚紋は神魚と定義し、「神魚=ニムナ=任那=みまな」としています。氏によると、魚紋は古代インド、ペルシャ、シュメールまで遡ることができ、海人(あま・海洋民系)に共通した独自なシンボルだということである。
以下は
より引用
許王妃は2人の王女と10人王子を産み、の子供のうち2人を許氏を名乗らせた。このため、金海金氏と金海許氏の誕生は同腹の兄弟であった経緯から、この両氏の間の結婚はタブーであった。
インドから来たという神魚紋…
許王妃の神魚紋=阿踰陀国=Ayodhyaの紋章と同じであると言われる。
金海市のダウンタウンから北東方向に「神魚山」がある。銀河山が古名である。伝承では西暦1世紀に創建され「西林寺」という名称だったと伝えられる。仏教が韓国に伝わる以前で1900年以上前になる韓国最古の寺である。首露王の王族である許黄玉の兄である長游和尚が創建したと伝えられている。仏教の伝来はチベットを経由した北伝と、東南アジアを経由した南伝とがあるが、韓国には372. 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える. 百済,東晋に使節を送る. 384. 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀)であるので、この寺は初め<ミトラ教>であっただろう。
アヨーディアの街で生地屋さんに入って、アヨーディアでしか買えない模様のバンダナやスカーフを買いました。
いいお土産ができました。
そこのご主人もすごくいい人で、日本から来たと言うと、すごく喜んでくれました。
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